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他人の幸せを喜べないこと自体に問題はありません。
他人の幸せを見た時に、人によって感じ方に違いがあります。
仮に喜びの度合を数字で表した時に、本人が100の喜びを感じていたとします。
周りにいる人達の中には、50の喜びの人もいるし、30の喜びの人もいるし、本人よりも嬉しい120の喜びの人もいるかもしれません。
喜びが0という人も当然いるでしょう。
他人の幸せを喜べるかどうかは、その人との関係性によっても変わってきます。
他人の幸せを喜べないこと自体に問題はありません。
何故なら、人によって感じ方に違いがあって当然だからです。
喜びは無理をして感じられるものではありません。
自然に湧き上がってくる感情です。考えて作り出せるものではないということです。
他人の幸せを喜べない問題は2つあります。
1つ目の問題は、他人の幸せを喜べない自分を責めることです。
どうして自分は、他人の幸せを素直に喜べないのだろう。
自分はなんて酷い人間なんだろうと落ち込むことです。
繰り返しになりますが、「感じる」ということは考えてするものではなくて、自動的に湧き上がってくるものです。
例えて言うならば、つまらない映画を観て、どうして自分は感動しないのだろうかと自分を責めているのと同じです。
全く意味のないことです。
自分を責めるエネルギーすらもったいないですよね。
ですから、他人の幸せを喜べないこと自体が問題なのではなくて、他人の幸せを喜べない自分を責めることのほうが問題なのです。
他人の幸せを喜べない2つ目の問題は、喜びを演出できないことです。
1つ目の問題よりも、こちらの問題の方が重要です。
自分が喜びを感じないからといって、不機嫌な態度をしていたら、相手はどう思うでしょうか?
その場の空気はどうなるでしょうか?
人に価値を与えられない人は、浅い幸せしか手にできません。
浅い幸せは、自分だけが満足する自己満足の世界です。
人の本当の喜びは、深い幸せの中にあります。
深い幸せは、自分以外の人に価値を与えることです。
自己満足の小さな幸せはすぐに感じることができますが、深い幸せは相手に価値を与えたからといってすぐに返ってくるものではありません。
日々、積み重ねていくうちに、やがて大きな喜びとして返ってきます。
他人の幸せを喜べなかったとしても、言葉や表情で自分も喜んでいるように演出してあげることで相手にも更に喜んでもらえます。
それが相手に価値を与えることです。
映画やドラマと一緒で、フクションかノンフィクションか、そのどちらがいいのか答えを求めるよりも、例えフィクションであっても周りの人達に喜びや感動を伝えられるかのほうが重要だと思います。