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今回は目標なんていらないというお話です。
<内容が長いので文章は途中までです。全ての内容は上記の動画を再生してください>
僕の父親はすごく厳しい人でした。
厳しい父親に育てられて、そこから僕がどうして目標なんていらないという考え方に至ったのか、についてお伝えしたいと思います。
僕の父親は、北海道で生まれ、9人兄弟の末っ子でした。
父親のお父さんは50代、当時の平均寿命が50代と言われていましたから、働く力もなく、父親はお兄さんに育てられました。
育てられたといっても、嫌々、「なんで俺が親父の子供の面倒をみないといけないんだ」と言われ続けました。
居心地の悪い環境だったと思います。
そんな中唯一優しく、大切にしてくれたのが母親だったそうです。
貧乏で食べるものもなく、いつもジャガイモやカボチャを食べていました。
こんな家を出て、早く自分の力で稼げるようになって、母親に裕福な生活をさせてあげたい、そう思う毎日でした。
中学卒業と同時に上京することになったのです。
父親は、野球のグローブを作る小さな工場で働くようになりました。
ひたすらグローブを作り続ける毎日、休みの日はグローブを直接売りに行くこともありました。
働いても働いても稼ぐことができません。
住み込みで働いていたのでご飯は食べさせてもらえますが、母親を裕福にさせてあげるだけの稼ぎはありません。
やがてグローブを作っていた工場が、倒産の危機に陥りました。
時代も変わり、グローブは機械で製造されるようになっていったのです。
小さな工場がどんどん潰れていき、父親が勤めていた工場も例外ではありませんでした。
このまま田舎に帰ったとしても、母親のことを幸せにしてあげられない、どうしたらいいか考え続けました。
当時は、競輪がブームで、映画にもなるくらい人気のスポーツでした。
新聞でよく目にしていた、スター選手が弟子を育てていることを知り、父親はその師匠に会いに行くことにしました。
スーツを買えるお金もなく、友達から貸してもらい、カステラを買って師匠の家に向かいました。
師匠は現役の選手でしたから、レースに出かけていることも多く、家にいることがほとんどありませんでした。
玄関で対応してくれたのは女将さんで、ほとんどの場合、門前払いのようです。
毎日のように若者が師匠の家に訪れて入門をお願いするのですが、格好がだらしなかったり、挨拶がきちんとできないだけで、中に通される事はありません。
父親が師匠の家に行った日は、たまたま師匠が家にいて、中へ通してもらうことができました。
師匠は、何人もの弟子を育ててきて、できる人間とそうでない人間を見極めて入門を決めます。
父親は貧弱な身体にも関わらず、すぐに入門の許可を頂ことができました。
その時師匠に言われたのが、競輪の自転車と、親の承諾書もってこいの、2点でした。
競輪は危険な競技ですから、いつ死ぬかわかりません。
早速父親は、北海道の実家に行き、家族を説得しようとしました。
ところが誰1人賛成してくれる人はいませんでした。
父親のお父さんは、「お前は何を馬鹿なことを言っているんだ! サーカスに売られる!」全く聞く耳を持ってもらえません。
何度、説得してもわかってもらえません。
その様子を母親はじっと横で見ているしかありませんでした。
当時、女性は男性に意見を言うことが出来ませんでしたから、じっと見ているしかありませんでした。
数日経ち、母親は決心し、みんなの前で土下座をしました。
「この子がここまで言うのですから、何とか2年間だけチャンスを与えてあげてください」
母親のおかげで、なんとか競輪選手を目指すことができたのです。
工場が閉鎖されるまで、グローブの在庫を売りさばきながら、仕事を終えてから毎日走り込みをしました。
靴を買うお金もなかったので、毎日作業服と長靴でひたすら走りました。
夜中に警察に呼び止められることもありました。
競輪選手になるために体を鍛えてますと言っても信用されるわけはありません。
何か悪いことをして逃げていると思われたことも多々あったそうです。
ようやく師匠の下に弟子入りしてからも大変な毎日でした。
入門してからも練習をさせてもらえませんでした。
朝起きてから、全員の朝ご飯の準備です。
朝食が終われば、選手全員の洗濯。
あっという間に1日が過ぎて行きます。
何本ものタイヤに空気を入れなければなりません。
空気の入れ方が悪いだけで、金属の空気入れが飛んでくるのです。
誰も父親に教えてくれる人はいませんでした。
教えてもらえないなら、自分で時間を作って自分で考えて練習をするしかない。
朝が来る前に起きて、自転車のサドルにロープを巻き付け、トラックのタイヤをくくりつけました。
両足をベルトで固定された自転車を何度も止まりそうになりながら、必死でこぎ続けました。
競輪選手になるためには、伊豆の競輪学校に入らなくてはなりません。
この試験に合格するのが難関です。
10代の前半から自転車に乗り始める人もたくさんいます。それでも5年かけても合格しない人がたくさんいます。
父親は、半年で肉体改造をし、試験に合格しました。
競輪学校を卒業し、やっと母親に親孝行ができると思った矢先、師匠から衝撃の事実を知らされます。
父親がプロになる2ヶ月前に、お母さんは、癌でこの世を去っていたのです。
母親のために競輪選手になったのに、悔しくて悔しくてたまりませんでした。
師匠も女将さんも、相当迷ったと思います。
でも、プロになる前にお母さんが亡くなったことを伝えてしまえば、この子がプロになることもできない。
せめてプロにさせてあげることが、唯一の親心だったのでしょう。
父親は悔しさをバネに、階級をあげて行きました。
お金を稼げるようになると色々な人からチヤホヤされるようになりました。
優越感もあったと思います。
競輪選手になって数年経ったある日、ぽっかりと心に穴が空きました。
どうして自分は競輪選手をやっているんだろう。
父親は目標を探していました。